この学園で生活しはじめて、早1年が経ちました。創立者の思いとか、キリスト教についてとか、自ら進んで触れたり、何かを感じたりは正直してこなかったのですが、自分なりに色々学んで生活させて頂いてます。

 そんな日々の中、自分は、最近“独立”に少し近づけた様に感じます。人という存在に縛られず、また、人という存在に依存せず、ただありのままの自分で自由にいたい。この“ありのままの自分“を直視できるようになったことが、この1年の中で、大きな学びと言えるでしょう。

 では、何故、ありのままの自分で自由を求めたのか。主な理由として、「この場所に学園があったから」ということです。町から外れた場所にある学園は、歴史を抜けば、すごく小さな世界に見えます。けれど、慣れない土地や、顔も名前も知らない人達が、100人弱といる学園は、私にとっては壮大な世界でした。知ってる人がいない。何もわからない。弱音を簡単に吐き出すことができない。中学時代3年目、不登校だったこともあり、人間関係に疎かったり、そんな弱い自分であることを見てほしくなくって、そっと自分を塞ぎ込んで生活してました。

 そんな時に覚えたことが“理想の私に偽る“ということです。色々な人達の〇〇なところをピックアップしていって、あたかもこれが自分なんです、と言わんばかりに、偽りを始めました。

 最初の方というか、なんならつい最近まで、それでも普通に楽しかったのですが、段々とその現状に違和感を感じはじめました。偽るだけだったはずの私がいつのまにか、自分を侵食していたことに気づいたからです。

 このまま自分がいなくなってしまうのかという焦りとじゃあいつ開放してあげればいいんだという困惑で、頭をグルグルと悩ませました。

 そんな時期にここ叶水の空をふと見上げてみた時がありました。その時の空がどうしようもないくらいに本当に綺麗で、涙が出そうな程感動してしまったのを覚えてます。こんなに大きな世界で、自分1人いなくなっても、自分がどれだけ弱くて最低でも、本当に何も変わんないんだろうなって思うと、急にこんな広い空の下で、自由になりたいという強い願望がうまれました。醜いありのままの自分と、理想で偽った私。圧倒的に、前者の方で生きている自分の方が、何色もの色を持つ空の下でも馴染めると思いました。

 だから私は、ありのままの自分で自由を求めました。醜くて、劣ってるとこばっかな自分を真正面から見てやろうと決意しました。もちろん、偽らないわけだから、劣等感で押し潰れそうになるのは、今じゃすでに日常だし、自分に忠実に生きているため、周りと馴染めてない感があります。正直つらいです。けど、やっぱり自分は今がすごく好きです。自分を大切にできている自分に本当に安堵します。

 長々と自分語りとなってしまいましたが、この場所に学園という存在がなければ変わろうと思えたきっかけとなった叶水の空には出会えなかった。学園のこの環境がなければ、正しいと思っていた行動が本当は傷をつけていたかもしれない可能性を知ることができなかった。学園が求めていることを意識しなければ、“1人で自由に生きる“という自分の行動で世界をこんなにも変えられるとは思わなかった。

 この学園には、弱さしかない自分にもできることが沢山あった。1人で為し遂げられるということと、同時に1人じゃ為し遂げられないことを学びました。

 学園はなんだか窮屈に感じることが多いです。けれど、人は窮屈な環境こそ、そこに適応するための力を学び、強くなってくのかもしれません。学園は、1人の人間として必要なことを教えてくれる、そんな場所だと思います。それを是非感じてほしい。そしてそれを言葉にしてみてほしい。自分のものだと思った瞬間、前を向いた時に見える世界が何か変わってるかもしれません。