連休キャンプに行ってきました。

キャンプ後の朝の礼拝で、3年男性が語ってくれた想いです。

ここ学園は、このような想いに触れることのできる場所です。

  今まで幾度となく祈りを捧げてきたつもりだった。でも、心の奥深くから、切実に神に求めた祈りは数えられるほどだった。ただ手を握り、目をつぶって、沈黙する。それも一種の祈りの型かもしれない。しかし、どこか頭の裏っ側の方で別のことを考えている自分がいて、あまのじゃくな事を言ってくるヤツがいて・・・アーメン。・・いや〜かないっこないか〜。

 外側の自分はいたって冷静でいるが、内の内側に立っている僕は、ずっと探し求めていたものを目の前で取り逃がしてしまったような、そんなやりきれない思いになる。

 では、本当にしん(心・真・深)から神の存在を受け止められた時はどうだったか。ふりかえってみると、それは、どの状況も極限状態、言わば崖っぷちの背景にあった。「主よ、主よ」と呼び求めた時、呼びたくなる時、いつも自分にとって未知の領域に立たされていた。辛い、苦しい、痛い、悲しい。そんな感情が、素直な感覚が、芽生え成長したら、僕はようやく祈りを捧げる事が出来るのだと思う。追いこまれないと夏休みの宿題ができない小学生みたいかもしれないし、そうかもしれない・・。

 連休キャンプで朳差岳から見た夕日は、祈らずとも神自ら自分に寄りそっていることを教えてくれている。

そんな美しい景色だった。