【生徒所感】

1年生

 皆さん、クリスマスですね。クリスマスと言えばイエスが産まれた日。イエスの産まれ方ってすごく特殊ですよね。精霊によりて宿る的な。でも思うんですよね。なんかイエスの産まれ方ってすごい托卵に似ているなって。托卵っていうのは、例えばムギツクっていう魚がいるんですが、そのムギツクの卵の産み方っていうのが、ハゼっぽい魚のドンコ、体に斑点がある、オヤニラミっていう魚の巣に集団で卵を産み落としてくるんですが、この別の生物に世話を託すっていうところが似ているんですよね。でも少し違うところがあって、ムギツクの場合はドンコとオヤニラミってけっこう強い生物で、巣が守られていて、とても安全だから自分で守るよりも安全だから産み落とすっていう選択をしているのですが、神は人間、ただの人間、マリアという弱い存在に託しているんですよ。一人息子を。ここに僕は愛がある気がします。僕はそこまで人間を信用してくれているのかなと思うのです。それこそ、托卵の字のごとく、卵というイエスを人間に託してくれているのだと思う。でも人間は、その信用に応えているのでしょうか。

 最後にある魚の話をします。カワスズメという魚がいるのですが、自分子供を口の中に入れて守るんですね。大人になるまで、その間食事ってあんまりとらなくて、なんか命がけで守ってる感じがするんですよね。これって、今の人の社会より愛があると思うんですよね。クリスマスの日ぐらい世に愛が満ち溢れてほしいものです。

2年生

 皆さんはクリスマスがどんな日になってほしいと願いますか。私は、喜びと感謝で溢れ、世界中が笑顔になる日になってほしいです。クリスマスは、イエス・キリストの誕生を祝う日として、世界中で祝われています。ですが、イエス・キリストが産まれたのは何千年も前の話で今生きている人の中でイエス・キリストの誕生を見たことがある人はいないし、イエス・キリストを見たことがある人もいません。なのに、キリスト教を信じている人も信じていない人も、世界中の人が、プレゼントをあげたり、もらったり、ケーキを食べたり、歌を歌ったりして祝います。これってとてもすごいことだし、不思議なことだと思いませんか。

 1914年にクリスマス休戦という出来事がありました。これは1914年のクリスマスの日に敵同士がサッカーをしたり、言葉は違っても歌を歌ったりして祝ったという、第一次世界大戦時の戦場で実際に起きた話です。クリスマス休戦が起きたように、こんな不思議な日だから起こる奇跡が私はあると思います。そんな奇跡で、世界中に笑顔が溢れてほしいと願います。

 話は変わって、今年のクリスマス劇で私はスポットをやります。ですが、スポットをやりたいと初めから言っていた訳ではなく、初めは主人公をやろうとしていました。主人公は立候補がかぶり、オーディションをしました。そして、私はオーディションに落ち、スポットをやることになりました。ですが、それでよかったなと思っています。なぜかというと、自分はなぜ劇が好きなのか、再確認できたし、劇で大切なことを考えられたからです。演者だから気付けること、学べることもたくさんあると思うけれど、それぞれの役の個性、代役では務まらない、1人1人のオーラや、演じ方、役の受け取り方の違い、言葉は発さないけれど幕の中にいる人の動きや、間の取り方、練習をしていくうちに変わっていく1人1人の演じ方の変化、役者はもちろん、音響や、幕引き、照明とのタイミングを合わせることの大切さ、スポットがつくり出せるシーンの雰囲気など、スポットをやったから気付けたこと、学べたことが沢山ありました。そして何より、私の中の役への価値観が変えられたというか、元に戻されたことです。小さい頃の私は、もっと単純に考えていたと思いますが、今思い返すと、私がお芝居が好きになった理由の1つは、お互いがお互いのよさを引き出している感じがあったからな気がします。ですが、私はいつの日からか目立つこと、というか、大きい役、目立つ役をやって誰かに褒められること、認められることを重視して自己中になっていました。演者は、その人にしかできない演じ方があって、代役には務まらないことが沢山あります。ですが、スポットは私でなくても、誰かが私を同じように照らすことができます。ですが、私がスポットだからできる役者の輝かせ方、引き立たせ方があり、また演じてくれる人がいるからスポットも引き立つことができるのだと思います。

 パズルのピースが1つだけだと何の絵かわからないように、パズルのピースが1つないとそのパズルは完成しないように、たとえ主人公がいたとしても、主人公だけでは何の劇かわからず、劇に携わる人が1人欠けただけでその劇は完成しません。裏方も、脇役も、主人公も劇に携わる全ての人が、お互いを利用し、高め合い、良さを最大限に引き出し、それぞれが自分にしかできない最高のパフォーマンスをすることで、初めて最高の劇は完成するのだということに気付けました。

 お互いに高め合い、みんなで作り上げている感じがするから、お互いが認め合っている感じがするから、お芝居が好きになったということを、今回スポットをやらせてもらって気付かされました。今年のクリスマス劇でスポットをやらせてもらえることが、今年のクリスマスプレゼントの1つだと思います。本当に感謝です。Merry Christmas.

3年生

 私は学園のクリスマスが好きです。3年過ごして確実に実感しました。思い返してみると、私のクリスマスは失敗ばかりでした。頑なに手放すことができず、人の思いを聞いた気になって、それでいて大事なところで自分の思いを、あれほど強く願っていた思いを、人に言葉にして伝えることができませんでした。

 私は弱いです。私には学園のクリスマス期間中、思い続けている言葉があります。それは「譲る」という言葉です。(本を読んでいて出会ったのですが、たしかこんな文でした。「人を愛するには必ず“譲る”という行為が必要になる。それは妥協や諦めとは違う。愛するがゆえに譲るのである。」)今年のクリスマスを考える会で“愛”について話している時、ある人が「僕にとって“愛”はゆるしだと思う」と言っていました。私にとっての「譲る」ということは「ゆるし」に似ているのかもしれないと思いました。クリスマス期間中はたくさんの人と話します。その分自分や他者の感性や思想に触れる機会になります。クリスマスは学校で用意されている行事なので事務的、作業的になることもあるけれど、やっぱりみんなどこかワクワクしていて、その空気感が私はとても好きです。人と話す中で、自分の言葉が否定されたり、相手の言うことがどうしても理解できず拒絶してしまったりすることもあります。ひどく傷ついたり、傷つけてしまったり、もう自分は話さない方がいい、この人たちの中にいてはいけないんじゃないかと思います。学園では自分が自分として存在することを許されているけれど、だからこそがっかりされないか、何か大切なものを傷つけないか怖くなるのです。それでも結局、私は分かってほしいと願うし、分かりたいと願っているのだと思います。

 今年のクリスマスのテーマの中に“となりには学園生”という言葉が入っています。毎日毎日学園生と生活して、笑ったり、イライラしたり、好きになったり、嫌いになったりして、生きています。一緒に生活して、こんなに近くにいるのに、埋められない孤独が私たちにはあるように思います。“個”として生きていく以上、心に抱いていたいと思うものが違う以上、それは当たり前なのかもしれないです。埋められないと分かっていても一緒にいたいと思うし、抱きしめてほしいと思ったりするなと思いました。そのことが重要なのだと私は思います。

 私はここでゆるされて生きてきました。だから私もゆるしたいです。私はここで出会ったものすべてを愛したいと思います。できるかは分からないけれど強く願っています。

 混沌としている中で、自分の心を完全にクリスマスだけに注ぐことはできなかったけれど、この場所でこの人たちの中でクリスマスを迎えられることに感謝します。どうか世界中の人たちにとって、私たちにとって、希望が灯るクリスマスになりますように。

保護者所感

 私は下の子が独立学園に入学したタイミングで、毎週講話のCDを送っていただくグループに入りました。CDに添えられているお便りに、学園の近況が描かれているのもとても楽しみにしています。遠く離れていてただ見守ることしかできない私にも、CDを聴くことで学園の四季の移り変わりや、近況、そして何より一人ひとりの講話をしてくださる方々の思い、みことばへの応答を分かち合わせていただくひととき、気持ちだけ学園の空気に触れているような気持ちになれます。子供たち同様、私自身もまた、この時を通して支えられ、励まされ、信仰による忍耐を訓練されています。信仰が試されると忍耐が生じるという忍耐が、この世の我慢ではないこと。神様に期待し、共に悲しみ、喜び、分かち合いながら忍耐を訓練されていることを身をもって味合わせていただいています。

 私は、イエス様を知らなかった時、罪悪感と隣り合わせでした。自分の短所や欠点に罪悪感を抱きました。人の期待に応えられないことに罪悪感を抱きました。人に迷惑をかけることに罪悪感を抱きました。その反面、気持ちの高ぶりもありました。人から承認された時、私は昂りました。そんな時もっと承認されたいとますます思うのです。この世で疎まれやすいものと、この世で賞賛されやすいものこの二つに伴う罪悪感と昂りは常に私の中で隣り合わせでした。でも私の罪悪感も昂りもどちらも罪ではありませんでした。私の罪は私が人を恐れるという罪であり、罪悪感や昂りは、罪によって生じた弱さに対する感情でしかありませんでした。

 私はこの世で溺れかけていて、必死に神様にしがみつき、少しずつ少しずつ信仰の歩み始めていた時に独立学園に出会いました。きっと以前の私だったら、基督教独立学園という名前に尻込みして踏み込むことはできなかったでしょう。でも絶妙なタイミングで私たち親子は独立学園と出会ったのです。

“神様のなさることは時に叶って美しい”

 私はみことばが常に私たちに語られていることを知りました。話を聞くことしかできませんが、子供たちが学園生活を楽しんでいるときはもちろん、試練の中にある時にこのみことばを思いいつも祈っています。上の子が苦しみの中にある時、一緒に生活していないのにわかるわけない と泣いて訴えられた時、私も一緒に泣きたくなりながら、今まで苦楽を共にした、たくさんのみことばが心の中に備えられ、神様に期待して歩んでくることができました。

時にかなって最高に美しい神様の業はイエス様の降誕であり、イエス様の十字架の贖いだと思います。

 今日こうしてイエス様がお生まれになった日を皆さんとともに喜び合える恵みに感謝しつつ、その十字架の贖いを思いその愛によって生かされていることを改めて感じる時を満喫したいと思っています。