強かに、ただ在りたいと思う。どんな困難を前にしていても、それを直視していたい。わけの分からない深淵に見つめ返されても、確かに立って、そして心から笑って、歩いていられるような強さが欲しい。弱さを知らなければ手に入らない強さだ。それが叶わないなら、生きていたいとは思わない。だから今、非常に苛立ちを覚えている。

 今の学園生に言いたいことはたくさんあるが、これは良い機会だから、色々と言い逃げしてやろうと思う。

 今、この学園を創立者の鈴木弼美が見たらどう思うのだろうか。「諸君、考えなくちゃだめだよ」が口癖だった彼は、ともすれば失望するのではなかろうか。今の私は、この学園に高尚なものを見い出さない。すごく低俗な、ただの落ちこぼれ集団に見える。下衆な安心感と、恥ずべき油断が見てとれる。自分たちは、よく考える人たちだ。向き合うことをやめない集団だ。他の人達とは違うんだという妄想が、それをただの妄想であらしめている。この妄想から自由にならない限り、本当の意味で考えたり、向き合ったりはできないだろう。私は少なくとも、この妄想を手放しは出来なくても、自覚はしているつもりだ。自分もできていないことを人に求めるのはどうかとも思うが、実際今はすごく情けない状態に思える。いつの時代でも、独立学園を形作るのは学園生一人一人だ。泣いても笑っても、どうしたってそれは変わらない。

 考えたいんじゃない、考えた気になりたいだけだ。知りたいんじゃない、知った気になりたいだけだ。分かり合いたいんじゃない、分かり合った気分に浸りたいだけだ。本当に知りたいなら、知った気になんかなれない。まして考えた気分になんか浸っていられないはずだ。本気で分かり合う気があるなら、分り合いたいなどと思い上がってはいけない。分からないことを分からないままに抱えていなければいけないはずだ。分からないことに押し潰されて、人を見る勇気をなくしてしまった私を笑っている学園生はいない。自分としては誰かに笑ってほしかった。

 苛立ちに生かされている。苛立ちが私の存在を担保してくれているように感じるからだ。もうこれ以上、私に語る力はない。言葉を重ねるごとに本質から遠のいていく気がするからだ。

〈独立時報173号(2022年12月10日発行)掲載〉