ある一人の卒業生の申し出を通して“謝る”という行為について考えさせられました。

  • 終わらせるための謝罪

 先日、10年ほど前の卒業生が突然連絡をよこして会いに来ました。そして僕に尋ねたました。「僕が在学中に蹴とばして穴をあけた壁の修復にはどのくらいの費用がかかりますか?」そして、その卒業生は「決してこれで終わりにしようとか、なかったことにしようということではなく・・・そもそもなかったことになんかできないんですけど、自分がやってしまったことに対して、ちゃんと直すという、形として表したい。」と続けました。僕は「わからない」と答え、「卒業して10年近く経った今、こうして話に来てくれたこと、ずっと心の中に留めていてくれたこと、そのことがうれしいしそれで十分だ」と伝えました。「でも、その気持ちをちゃんと形としても示したいということであれば、具体的な費用ではなく、自分の気持ちとして寄付をしてくれたらいいんじゃないか。それが君のあけた穴の修繕費になるかはわからないけれど。」と加えました。

 今回、卒業生が僕に言った「決してこれで終わりにしようとか、なかったことにしようということではなく、そもそもなかったことになんかできないんですけど」という言葉は決して口先だけの言葉ではなく、カッコつけた言葉でもなく、心からの言葉であると感じました。

 僕は自分自身の過去を改めて思い出しました。僕は小学、中学時代にいじめの加害者でした。被害者の側がどう受け取っていたかはわかりませんが、僕自身があれはいじめだったと振り返っています。そのことに気付いたのは20代前半、学園に勤め始めてからです。その事実に気付いた時、何ということをしてしまったのかと、何とかして謝れないだろうかと、僕は卒業アルバムを手掛かりに手紙を書きました。返事は来ませんでした。数年が経過し、僕は手紙を書いて出すことで何をしたかったのかと振り返ることがありました。結局、自己満足だったのです。謝ったという事実がほしかった。いや、もちろん本当に申し訳なかったとは思っていましたが、あまりにも自分勝手な行為だったと思います。思い出したくもない過去かもしれない、今も傷が癒えずに閉じこもっているかもしれない、やっと前を向き始めた時だったかもしれない、そんなことも考えず、自分勝手に謝罪の手紙を書いたのです。そんなつもりはなかったとしても、僕は謝罪することで過去の行為をここで終わらせたいということだったのだと思います。このことに気付いた時、もう現実的にはかなわないであろう謝罪の場を求めつつ、自分の側からアクションを起こすことはやめよう。僕はこの自分の人生をかけて過去の過ちをこの社会の中で責任を果たせるように生きようと決めました。これは僕が死ぬまで続くことです。

 謝るということについて、もう一つ思い出されることがあります。僕が学園の1年生の頃、あることで人を泣かせてしまいました。僕はすぐに謝りたかったけれど、謝らせてもらえませんでした。しばらくは避けられていました。謝りたいのに謝らせてもらえない。間違ったことをしたら謝る。このことは大事だけれども、それは自分本位であってはならない。自分のタイミングではいけないんだ。言い逃げのように誤ったという事実だけを残そうなんて、全く相手の気持ちを考えていない行為なんだ。そのことに気付いたのも大人になってからです。

  • 形式的な謝罪

 数年前に、ある生徒が僕のところに来て、ある事柄について謝罪しに来ました。僕はその生徒に問いました。「なぜ僕に謝罪しに来たのか。僕が生徒指導部長だからか、それとも僕という人間に対して謝罪する必要があると思ったからか。」その生徒は「前者です」と答えました。つまり、僕という個人との関係性を裏切ったとか傷つけたとか、そういうことではなく、立場としての僕に謝りに来たということでした。僕はそのことがよくわかりました。個人的な関係性としての僕に対して申し訳なさを感じさせる様な関係性ではなかったということは僕自身も自覚していたので、その答えでよかったです。僕は「じゃあ、僕に謝る必要はない。」と伝え、加えて「この人には謝らなければならないという人はいるか」と聞きました。その生徒は2人の名前を挙げました。「よかった。そのような関係性の人がいてよかった。謝っておいで」と伝えました。

反省してなければ謝らなくていいとか、形式的な謝罪は必要ないとか、そういうことを言いたいわけではありません。具体的な一つの関りの中でのことです。その意味では、僕と彼の間には「僕に謝る必要はない」という言葉が通じるくらいの関係性はあったのかもしれません。

  • 謝罪ではなく感謝を

 昨年度の全校スキー遠足の朝拝、正確な言葉は思えていないのですが、計画委員の一人が「十分に気が回らず、うまくできない計画委員を助けてくれてありがとうございます。」とみんなに向かって言いました。僕はこの言葉を聞いてすごいなと思いました。ちゃんと周りのことが見えているから感謝ができるのだと思います。僕は自分の事ばかり見ているから失敗した時にダメだダメだと内向きになって、出てくる言葉は“すみません”しかないのです。周りを見たら助けてくれている人がいるのに、“ありがとう”ではなく“すみません”になってしまう。感謝できる人になりたいです。

〈2023年9月29日 朝拝〉