木の「根」は土の中で下へ下へと深く広く伸びていき、その張り巡らされた分だけ地上の木を、その幹を雨・風・雪の中でもしっかりと支えてくれる。現在、ここ叶水は木々の新緑がとても美しい中にある。しかし、残念ながら人間にはその地中を見ることは出来ない。実は決定的に大事な部分を見ることが出来ない。人間もまたこうした木々と同様ではないかと思う。我々が陥ってはいけないことは、今見えている表面の姿だけで、その木を分かったと思ってはいけないと言うことだ。

 3月、卒業を前にした73期生と最後に話す機会が与えられた。話せば話すほど、この生徒はこんな考えをしてきたのかという思いにさせられた。一人の生徒の世界は計り知れなく広く深いとあらためて教えられた。目の前に居る生徒自身、「自分とは何か、人間とは何か」を求め続ける一人称単数現在の姿で座っている。周りに転がっている「答え」に自分を当てはめて、そこに留まろうとすることから自由であろうとする力強さを感じた。そして、これが真理を求める態度というものではないかと教えられた。それはここでの3年間という時間の中で、表面には見えないところで、人に見られ知られること無く、静かにコツコツと深く深く自らを掘り下げる営みの結果であり途上の姿だ。

 一方、下へ下へと向かう作業は時間軸的には過去に向かう作業でもある。そこでは、自らの生きてきた年数を突破して、多くの人物に出会う事が、共感する事が出来る。我々が聖書から学ぶ意味もそこにある。内村鑑三は日本の武士道という精神性の上にキリスト教を接ぎ木すると言っている。内村の著書、「代表的日本人」の中で彼は二宮尊徳、日蓮、西郷隆盛、上杉鷹山に出会っている。どうも我々は、元号というものがあると、まるでそろばんの御破算のようにその節目以前を別のものとして片づけてしまう、忘れてしまいがちだが、明治は江戸に直結しており、明治・大正・昭和は実はしっかりと連続している。歴史はずっと通し番号で繋がっているようなものであり、そこに多くの出会いの可能性が秘められている。

 期せずして、4月と5月に二つの出来事があった。一つは、4月19日ポーランドのワルシャワで第二次大戦中ナチスによるユダヤ人迫害下、ゲットーの支配に対してユダヤ人が抵抗の蜂起を起こしたことへの追悼式典である。蜂起から80年目を迎える今回、初めてその場で語ることを許されたドイツの大統領シュタインマイヤー氏はポーランド、イスラエル両大統領及び参加したポーランド人とユダヤ人の前で「ドイツ人の犯した犯罪に対して赦しを請います」と言い、両国から差し伸べられた和解に感謝を述べた。その日のドイツのテレビ番組では、司会者が「先ず事実から始めます」と言って、ナチスによる当時の圧政、強制収容所などのことが詳しく映し出された。

 一方、5月7日には韓国を訪問した岸田首相が、元徴用工問題について「私自身、当時の厳しい環境のもとで多数の方々が苦しく悲しい思いをされたことに心が痛む思いだ」と語った。韓国では、「謝罪を聞きたかった」という声もあれば、この発言は韓国が要請していないのに、日本側が決定したことであり一歩前進と意見が分かれた。

 これらのことは、国家単位で行われる根を掘り進める作業ではないだろうか。我々の国という木の未来の可能性は、個人と同様に地中深くにより真実を求め掘り進めていく作業の上に立っているように思われる。

 5月26日は創立75周年の記念式を行う予定である。記念講師には大山綱夫先生をお招きすることになっている。計画委員の生徒達は今年のディスカッションテーマを「あなたにとって、今学園にいることって何?」に決めた。生徒達は親元を離れ、地元の人間関係を離れ、正に今、ここでの他者、隣人を現場に生きている。そしてそのことを大切にしようとしている。彼らが言う「今」には覚悟を感じる。今ここに居る自分、今この時代に生きている自分、その見えない世界である地中を深く広く耕し掘り下げる自由を求めていって欲しい。