校長室の窓から日々変わる山の景色を見ている。今年は紅葉の始まりが遅く感じていたが、10月後半から一気に紅葉がはじまった。現在は、葉の散った木々が並び立ち、山肌がはっきりと見える。飯豊山にも冠雪があり、はるか遠くから近づいてくる冬を感じつつ、自然は私たちに言葉では言い表せない美しさを見せてくれている。
コロナ感染の中で2年が経とうとしているが、この現象は確実に我々の中に変化をもたらした。コロナがあってもなくても我々は人を信じたり、疑ったり、ぶつかったり、励まし合ったりしながら人間の日常を生きてはいる。しかし、このコロナ現象は特別に何事かを濃縮させているような気がしてならない。
それは、「恐れ」というものである。コロナ状況下では、距離をとる、マスクをする、会話を控えるなどできるだけ人と人が触れ合わない環境をずっと維持してきている。人間はただでさえ他者に対して「恐れ」を抱くものではないかと思う。そして、コロナ状況下で威力を発揮している各種電子ツールは、不便さを補うものとして利用枠が急拡大している。それらは、我々の中にある他者への恐れを一見軽減させているようで、実は本質的な人と人との関係を作っていく営みの内容を変質させてしまっている。
その中で感じるのは、「恐れ」の問題が解決されるどころか、実際は深刻化していっているということである。それは、他者に対して過剰に自己防御する人間を生み出していくことにならないのだろうかという不安がある。人が人になっていく大切な手段、人が他者と共に生きてくことを学んでいく手立てが、深いところで奪われてしまっているように思えてならない。いやむしろ積極的に多くの人が、やらなくても良い道の方へと避難していってしまっていると言っても良いのかもしれない。そのような現在が、何か得体の知れないもろさに向かっていっていると感じざるを得ない。人が他者に対する「恐れ」から、解き放たれて行くためには、関わってみるしかない。勇気を持って話しかけてみるしかない。触れてみるしかない。ぶつかってみるしかないのだ。
クリスマスが近づく中、本校では先週の朝拝で一週間Watchman, tell us of the night.(夜を守る友よ)を歌った。主の降誕の夜明けを前にして、旅人と夜警が今は何時かと対話する英語の讃美歌である。この歌を歌いながら、日本は世界は今、どこに向かっているのかとあらためて思わされた。
現在、生徒とボンヘッファーの「共に生きる生活」を読んでいるが、彼は言う「共に生きることが崩壊していくのは小さな事に感謝することを忘れた時」であると。「ない」「ない」からでなく「ある」「ある」から、日々の小さな事の中に感謝を発見しつつ、その中から他者に向かいそして他者と共に歩んでいく力を与えられていきたい。
〈独立時報171号原稿 2021年11月〉