4月に入学式を始めることの出来る幸いをかみしめながら、新しい年度がスタートした。入学式では「本校への入学おめでとう」と言う。何がおめでとうなのだろうか。

 この一年以上にわたっている新型コロナウィルス感染の大きな影響は、人間が人と人との関係の中へ一歩足を踏み出すことをますます怖れさせるように働いているような気がしてならない。ここ叶水にある生活・教育共同体としての学園もまたその余波を敏感に感じることが出来る場所である。

 共に生きるとは自他の差違の渦の中に巻き込まれるようなものである。わたしという存在が起こす波紋は他者に向かい、そして自分自身の内に向かう。自分自身が「そこにいなければ、悩みは起きない」という存在現実を実感する場所である。逃げたいという衝動的ともいえる弱さの感覚が煮詰まる場所である。だから、隣にいる他者が自分自身とどんなにか深い違いを持つ存在であるかに出会っていく営みに自ら入っていくことには勇気がいる。わたしは、そのことを自らの事として選び決断し入学を決めた人達に「入学おめでとう」と言った。その勇気を讃えたい。

 「取り戻す」一番最初のものは何だろう。それは意外にも「あそび」である。この時代において、スマホ・ネット・テレビのない環境がどれだけ大きいことなのかをつくづく教えられる。入学早々、4月後半に近隣のサルッパナという800メートルほどの山への登山計画がなされた。新入生を含め多くの生徒が参加した。天候はあいにくで、霧の中を歩くような登山ではあったが、生徒は喜んで参加していた。準備の間中、現地に行くまでの間中、登っている最中、様々な風景を共に見る最中、下山し帰校してからなされる振り返りの会話、どれもこれも楽しそうで「あそび」に近いものに見える。そして、このことは登山に留まらず、生活の至る場面で見受けられるのだ。同世代といつも話が出来ること、共に行動することができることは何と楽しいことなのか、生徒達はまるで、やったことのない初めての経験であるかのように生き生きと本来の 「あそび」を取り戻している。取り戻す中で、野山に入ったり、土に触れたり、動物に触れたりすることの意味を再発見している。

 取り戻す二つ目は「言葉と人間」である。

世界中の人達が長い期間、日々共通して一つのことから影響を受け、そのことに意識を向けるという経験は、世界大戦などは別にして滅多にあるものではなく、このコロナの現象はそのような我々の日常を現に目の前に作りだしている。そして、その中でどう見ても世界中が疎遠になっていく、各国がそれぞれ自国に引いて行く中で、静かに分裂が深まっているように思えて仕方がない。その余波も、この我々と無縁ではなく、自分たちの「今」「ここ」に深くくい込んできている。

 聖書のエフェソの信徒への手紙2章14節以下に人間の分裂と和解のことが述べられている。「二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き」、「二つのものを一つのからだとして」とイエス・キリストにある和解と平和のメッセージが述べられている。

  私たちが共に生活をし空間を共にする中で最も尊いものは何だろうか。それは祈りも含めて言葉ではないかと考える。他者から深く聞かれることへの信頼、そしてその場所から語られるその人自らの言葉には宝石以上の価値がある。そこに一つしかない固有の尊いものである。

 朝拝その他の場で生徒が自ら生きる存在の証のように言葉を語る時、われわれは感動を覚える。取り戻す二つ目のものは、差違と分裂のただ中の、またその先にある人と人との間の「言葉」であり、「聞く」「語る」ことをたゆまず為していく本来の人間である。「言葉」は紡ぎ出されるものと言ってもよく、生み出されるものと言っても良い。

 一人一人によって為される果てしないその途上こそが、一人のそして共同の旅路である。そして、「二つのものを一つのからだ」としての共同体の可能性への約束である。

〈独立時報170号原稿 2021年5月〉