本校では年に数回、中学生とその保護者が来校し、交流の時を持つ学校説明会を実施している。その中で、数年前から生徒による質問コーナーが設けられている。参加者がその場で様々な質問をし、生徒が応答するというものである。事前に用意されているものは一切無く、まさにその時の参加者と生徒による直接対話の場である。
先日、ある参加者からこのような質問が投げかけられた。「あなたは、この学校に入って何か変わりましたか」。この問いに対して一人の生徒が、次のように答えた。「自分はこの学園に入って、これまでずっと“変わる”ということについて考えてきた。自分が変わりたい、自分を変えたいという願いがこの学校に入った理由でもある。でも、ここまで生きてきて変わらない、変われない自分がいるということに気づいた。そして、このことに気づいたからこそ、今の自分がいる。」このように、生徒は自らの変化について語ってくれた。私はこれを聞いてはっとさせられた。この生徒は、真剣に自らの課題と向き合い生きているのだと。
独立学園の講堂の正面には、内村鑑三の言葉「畏神不恐人(神を畏れて人を恐れず)」が掲げられている。神にある独立とはどういうことか、人を恐れず神により頼むとは何か、我々はこの場において共に日々生きる中で考えることを促されている言葉である。そしてこの言葉は、とりもなおさず「人を恐れず」を日々求めていこうと、励ます言葉に理解されやすいのではないかと思う。一方で、100人足らずの共同体である本校では、人間の接触が密な中でどうしようもない他者への不安や恐れを実感する日々でもある。これは、一人ひとりが異なった人間である以上、必然的な緊張感から来るものであり避けられない事実である。もちろん学園には、この真逆の大きな喜びの時があるということは言うまでも無いことだ。
「畏神不恐人」の言葉を見る時、誰もが人を恐れる不安や苦しみから解放されたいと思うものではないだろうか。それは時として、恐れる弱い自分を何かで紛らわし、覆い、見ないことによってその場をなんとか乗り切ろうとする、弱く寂しい己を生きる経験の場にもなる。「これまで自分は変われると思っていたけれど、変わることの出来ない自分がいることにと気づいた」と言った生徒の言葉と重ねて考えてみると、「人を恐れず」生きるのではなく、「人を恐れて」生きてしまう、変わることの出来ない自分をしっかり見ることの覚悟・決意のようなものが、私たちに問われているのではないだろうか。
学園共同体は、人を恐れない人たちの集まりではない。人を恐れる弱き人たちの集まりだと思う。出来るだけ人間の事実・真実から目を背けずにあろうとする、個人の集まりであると言っても良い。共に生きる中で、一人ひとりが、人間である自分の事実・真実に向き合おうとする中から出てくる言葉は、飯豊山や朝日岳の山々を登山する時の足並みにも似て一歩一歩、一言一言、着実にそして確実に語られるものだ。そこには年齢や経験の差違とは全く関係なく、その場を動かす個の力・尊厳がある。
3年にも及ぶコロナ感染の渦中にありながらも、この叶水の周囲の自然は何も変わることなく四季の変化を繰り返しながら我々を見守り続けてくれている。そして今、飯豊山の冠雪と共に静かにひっそりと紅葉が終わろうとしている中、私たちは主の待降節の讃美歌を歌い始めている。
〈 独立時報173号原稿 2022年11月 〉