ある時、“立ち止まる”という話になった。私は立ち止まり方がわからない。大きな障害物がないと立ち止まれない。単純な道を、もし自分が歩いているのなら、止まっていても意味がないのではないかと思った。けれど、きっと、そんな道でも立ち止まってみたら、もう一度考えたり、感じたり、知ったりしたら、大事なものを見逃さずに歩いていけるだろうと思う。
私が持っているものは、自分にとって大事にしたいものとか、自分で消費できないもの、解決できないものだと感じる。自分にとって大事にしたいものでも、ときには邪魔になる。けれど、やっぱり捨てられない。それがずっと自分の中での課題だ。自分の課題は、いつまでたっても変わらない。どう自分のものと他から得る大事なものを受け取って生きていくか。私はまだ受け止めきれないし、そもそも気づけないものが山ほどある。受け取りたかったのに、自分の思いが邪魔をして受け取れなかったものがたくさん道に落ちているような気がする。
立ち止まり方を知りたい。大きな障害物がなくても、自分の意志で立ち止まって戻って拾いたい。
〈2025年5月30日 朝拝〉
※英語讃美歌:122、日本語讃美歌:Ⅱ136番 聖書:コリントⅠ 14章9節~11節