最近、同期の舎生日誌や感話を聞いていて、よく「あぁ、話すこと変わったなぁ」と思います。1年目は皆、自由に色んなことを話し、言い方は悪く聞こえるかもしれないけれど、話すことに迷っている感じがしました。でも、今年に入ってから、皆が“感じている本物”を話す場に、朝拝や夕拝がなったんだなと思いました。思いが聞けてすごく嬉しいです。

それに比べ、いや、別に比べるものでもないのですが、私はいつまで経っても自分の本物の思いを、文字に起こすことができないままだなぁと思います。ずっと人によく思われたい、人をあっと言わせたい、願わくば書いた文章で何かもらいたい。ただそれだけで文を書いてきたから、本物の文章がもう書けません。だったら、この感話もこの原稿なんて破って口だけで伝えたらいいのに。そう思うけれど、言葉に詰まるのが怖くてそれもできません。

周りの人が見たら、いいねと言ってくれるような文章が書けても、それは私の文ではなく、ただ周りの人がいいなと思ってくれそうな言葉を、並べていただけでした。最初は褒めてもらえたらイェーイくらいの感覚でしたが、ずっとそんな文を書くうちに、私の内から、私の本物の文は消えてなくなりました。

だから、自分の内から出る思いを文字に起こす機会が多いと言う点で、私はなんでこの学校に入ったんだろうと思いました。でも、それはきっと私がまた、私の文を書けるようになるためなのかもしれないと思います。

事実この学校には、これこれ、こういう要点を抑えれば褒めてもらえる、というような文は存在しないからです。それぞれが、それぞれにこの人の舎生日誌や感話がよかったなと思い、その思いを直接伝えにいく。実はそれは、どんなに大勢の人の前で表彰されるよりも喜ばしいことなのかもしれないということに、2年目になってやっと気づきました。

私は人の書いた文章に優劣をつけないこの学園で、また私の本物の文を取り戻したいです。

※独立学園では、夕拝で話す話を「舎生日誌」、朝拝で話す話を「感話」と呼んでいます

〈2024年7月11日 朝拝〉