私は探求の授業で電話をたくさんかけました。電話をしていて、言葉づかいが変になっても社会でも受けとってもらえるんだと思いました。休みになって、家にいたときに近所の人にあいさつするのですが、そこから先には入りにくい線を感じます。だから社会は表面上のことだらけだと思っていたのに、言葉づかいが変になっても打ち切られずに話してくれたことにびっくりしました。私は学園に来て、言葉の本質が言葉づかいにないことを教えてくれた人たちをいっぱい見ました。もし学園に来ていなければ、言葉からしか相手の感情を読みとろうとしなかったと思います。

 私は学園に来て、人とどうやって話せばいいのか知りました。それまで、こういう場面にはこうするべきだという正しい向き合い方があるはずだ、いやあって欲しい。この人は私のことをこう思っているんだと思ったり、また逆に、この人はこういう人だろうなと思ったら、それを壊して相手の場所に入っていくなんて選択肢の中に入っていませんでした。友だちづくりにも、クラスメイトと仲良くやっていくにも正解があると思っていました。だから本があればいいなと思っていました。どうやって話したり、仲良くなれるのか分からないから教えてくださいと、お願いすることなんてできないと思っていました。なぜなら、みんなはそれをあまり重要に思っていないように見えたし、もう既に知っているように見えたからです。また、人との関わりの中で学ぶものだと気づいていたかもしれないけれど、自分にできないことがあって、それを変えたいと思っているなんて人に知られたくありませんでした。  

 私は人付き合いには、作法のようなものがあるのだと思っていました。なんとなくや仲が悪くない風、そんなもので生活していれば、また明日になって特に何もなくそれなりに過ごせるだろうと思っていました。それで何も不満に思いませんでした。だから初めて同期と会ったときにびっくりしました。こういう子が、私に普通に話してくれるんだと驚きました。こういう子なんて思ってごめんなさい。でも、私は今までそう思って生きてきました。学園に来て学園の人たちを見ていて、教えてもらえました。こういう時はこうするんだというのではなくて、私が一般的にはこうだろうと予想していたものを壊して本気で生きている人、自分の本当のことを知ろうと探している人をたくさん見ました。なんとなくじゃ通用しないんだなと思いました。学園に来て同期と出会えて、学園の人たちと出会えてよかったです。

〈2023年7月13日 朝拝〉