前回の朝拝で祈りの虫、拝み虫、カマキリについて話しました。
最近は寒くなってきて、カマキリの姿も少なくなってきましたね。
前回の最後に、カマキリのその姿勢が祈りの本質を捉えているのでは?という話をしました。とはいったものの自分でも祈りとは何なのか、あまりわかっていません。
でも少し思い返してみると、自分は事あるごとに結構祈っているなと思います。
僕は父が牧師で、クリスチャンホームで生まれたため、お祈りの習慣は身近なものでした。幼稚園などでも、定型のお祈りのようなものをよく唱えていたと覚えています。
その時のお祈りは、ある種のおまじないのような認識があったと思います。
僕の祈りに対して認識が変わり、考え直すようになったのは学園に入ってからです。
在学中の一年目、当時の男子寮では良くない風習ですが、夕拝をいかに早く終わらせることができるか、夕拝RTAのようなものが陰ながら流行っていたのだと思います。
その日の先輩は、(あまり公にさらすのも良くないかもしれませんが)讃美歌二編257番
“このいのり”だけを賛美し、聖書も読まず、舎生日誌も読まず、(そこには何か意志があったのかもしれませんが)夕拝を終わろうとしました。
その時、今でも鮮明に覚えているのですが二班のあたりにいた今野和子先生が、
「せめて、祈りの時間を持ちなさい。」とはっきりとした声で言ったのです。
当時の和子先生は、とても優しく何か少しやんちゃしても眉を寄せる程度で、しょうがない、と認めてくれるような方、だと勝手に認識していました。だから、そんないつもか細い、優しい声で話していた和子先生からの、その時のはっきりとした鋭い指摘は忘れられません。
それから、和子先生が夕拝の中で大切にした祈りの時間、それを持つことにどんな意味があるのか、その時間を持つたびに考えていました。
祈りの時間を持つときに、皆さんの頭の中はどうなっているでしょうか。
実際、僕は黙祷の時間を持つときに、何かこれを祈る、と頭の中で決めることはありません。ただ目をつむっているだけの時もあります。
ただ、夕拝や、朝拝、黙祷の時間を持つとき、食堂、講堂は沈黙につつまれます。
先月の男子寮の舎生会でも扱いましたが、大勢がいる中で沈黙を持つことは、とても難しいと思います。一人では沈黙はできません。
朝拝、夕拝前の黙祷 いただきますをする前の、数秒、飼っていた生き物が亡くなって、埋めるとき、標本を作るために生き物を扱う際、僕は祈りの時間を持ちたいと考えています。
連続的な生活の流れの中で、
僕はその沈黙、祈りの時間が、大切、というより、物事を、一日を始める、終える上でなくてはならない必要な物なのではないかと思うようになりました。
でも、黙祷ではなく、祈り、朝食、夕食の祈りの時間も同様に必要であると思います。
それはなぜなのか、考えてもらいたいです。というか、僕にはまだ言語化はできません。
ただ、食事を前にみんなで席に着き祈りの時間を持つ意味は、その行為を続けてしなくてはわからないだろうと思います。
学園という小さな共同体の中で、共に祈る事の意味を、考えつづけていきたいなと思います。
〈2026年10月2日 夕拝〉
※日本語讃美歌:JH285、JHⅡ257
聖書:テサロニケの信徒への手紙 Ⅰ 5:16~18
