30年以上この学校で働いていると、以前生徒だった人の息子や娘がこの場で学んでいる風景にたくさん出会う。仕草振る舞いが親に似ているように見えると時間がタイムスリップするが、今生きている生徒は2025年の今日の生徒であり、親の時代の親とは似ていても確実に異なった人格なのである。同じ空間、同じ場所、同じ山川の風景、同じ風を受けるその空間で何層にも歴史が織りなされる。
学園にはメインロードと呼ばれる一本の道がある。その道は校舎と食堂をつなぎ、女子寮と校舎を、男子寮と食堂をつないでいる。独立学園の生徒はここで生活する限り一日に何度も何度も確実に歩く道路である。相当前は、砂利道であったが現在は舗装されている。この道は、一人で歩く道であり、友と一緒に歩く道であり、駆け抜ける道であり、リヤカーを引っ張って作業に向かう道であり、登校する時の道でもある。孤独の道であり、人とすれ違うことがこわい道であり、一緒に歌いながら歩く道でもある。祈りの道であり、怒りの道でもあり、悩み苦しみの道であり、神に出会う場所「信」が起こる場所でもある。学園は今年で創立77周年を迎えた。そしてこの道は、創設以来数限りない人たちが確実に歩いた道なのである。そこは一人の人間が自分の足でそこを歩いた、紛れもない存在の足跡が刻まれた場所でもある。
山に囲まれた中にある本校は、現在紅葉がとても美しい中にある。校舎前にある一本松と呼ばれる雑木林の木の葉が、緑・赤・黄色・茶色など言葉では表現できない美しい色彩を放っている。特に晴れた日には、空の青さを背景にそのコントラストは特に美しい。そしてこのメインロードと呼ばれる道路の先には、サルッパナと呼ばれる山が正に今この時、全山紅葉の中でじっとこちらを見つめている。これらの道や山は100年たっても変わることなく、変わらないものとしてここにあり続けるものだ。
生徒はわずか3年という時を与えられ、この学校に足を踏み入れ、日々を歩いて通り過ぎて行く。特に現在、中学まではスマホやIT機器に囲まれて生活していた生徒も、本校での3年間はそれを離れた生活を送っている。そしてここで何をしているのか。昔からずっとやってきたことであり、それは自らの足で歩き、手や足で、体全体で土や自然に触れ、人間に直に触れる日々を変わらずに送っている。とても地味なのだ。
今は、本当の深い「喜びの源泉」はどこにあるのかが一人ひとりに問われる時代だ。深く自らを見つめるとき、自らの手・足・頭・心は静かに静かにその答えを、その人自身にささやくように細き声で教えているのではないだろうか。クリスマスやキャロリングの計画委員が立てられ、背後の飯豊山は雪で真っ白になった。もうじきここは白一色の世界に変わる。そして暖かい冬がやってくる。今年は特に「平和」について考えることが多い一年だが、結論はやはり、今ここで共に生きるものたちとの間で精一杯日々を生きていくことが、世界平和に繋がると考えざるを得ないというものだ。そのような思いの共有を皆で共に創り上げてきているこの数年間に感謝である。
イザヤ書40:8 「草は枯れ、花はしぼむが わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」
〈独立時報179号〉
