新しい年を迎えました。皆さんはどんな年末年始を過ごしたでしょうか。我が家では、年末になると年賀状を作るのですが、そこに一人一言書くようにしています。毎年テーマを決めています。今年は、今年の漢字でした。各々が、一年を振り返り、自分を表す漢字を一字決めました。私は「土」という字を選びました。
昨年読んだ本の中で「与格構文」という文法があるということを知りました。インドのヒンディー語などにあるそうです。「私は悲しい」という場合、ヒンディー語では、「私に悲しみが留まっている」または「私に悲しみがやってくる」と表現します。「私に」の「〜に」で始まる構文を「与格構文」というそうですが、多くの場合、自分の意思や力が及ばない現象に対してこの「与格」を使って表現するそうです。主語が「私」ではないのです。私を超えたところからやってくるもの、私は、その「何か」を受け取る「器」にすぎないのだという思想が言語の中に表れています。私以外に主語がある、主格がある、その思想がこの「与格構文」という言語に現れているように思います。
◉創世記 2:7
「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」
◉コリントⅡ 4:7
「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。」
聖書には、私たちは、土で作られたものであり、土の器であると記されています。人は、神さまの恵を受けるために、土で作られた器なのだということです。昨年の私にとって、この「土」という字が、大きな意味を持つ漢字でした。
しかし「土の器」と言われても、イメージがつかないかもしれません。しかし、そのヒントが先ほど話した「与格構文」の中にあるように思います。
「私は悲しい」と「私に悲しみがやってくる」では、何かが決定的に違うのです。この違いが「土の器」の持つ意味のように思うのです。ではそれは一体何か。そのことを、再確認することができた出来事がありました。
昨年11月に1週間の研修会に参加しました。全国の小学校から高校までの先生方が集まる研修でした。いろいろな大学から講師の先生が招かれ、実技やワークショップなどボリュームのある研修が朝の9時から夕方5時まで1週間続けてありました。学生に戻ったような感覚で、多くの先生方と交流を持ちながら勉強をしてくることができました。その研修の中で、一つ心に残った話がありました。
それは熊本の小学校での事例でした。熊本県の水俣市にある小学校です。水俣市は、四大公害病の一つである水俣病が発生した場所です。小学生数名が下校中、帰り道を歩いていたそうです。そこに水俣病の人が通りかかりました。すると小学生たちは、その人を囲み、みんなでバカにしたと言います。すぐさま学校に電話がありました。「おたくの生徒はどうなっているのですか、人を傷つけバカにするような教育をやっているのですか。」
次の日の朝、全校集会がもたれました。校長先生が全校生徒を集めたのです。そして子どもたちの前に立ちました。この事情を知っていた他の先生方は、お叱りの時間が始まると思ったそうです。しかし、その校長先生が語った言葉を聞いて驚いたと言います。校長先生は子どもたちにこのように語りました。
「教育のやり直しをしよう。」
私たちが今までやってきたことに、何かうまくいっていなかった所があったのだと思う。だから、みんなで教育のやり直しをしようと語ったというのです。校長先生が、教職員にではなく、小学生に対して教育のやり直しをしようと語るその姿に驚いたと言います。そして、そこから大きな変化が始まりました。校長先生は、水俣病の方のところに謝りに行き、こう伝えました。「メッセンジャーになってほしい。」子どもたちに水俣病のことについて、ぜひあなたに語ってほしいとお願いし、講演者として学校に招いたのです。このことをきっかけに水俣病の歴史やその苦しさを当事者の言葉を通して子どもたちは学んでいきました。そして子どもたちは、現在の水俣市の抱える問題にまで関心を持ち、目を向けていったそうです。
この校長先生は、「私に悲しみがやってきた」その与格構文的な感覚を持っていたのだと思います。頭ごなしに叱りつけることも、水俣病の方の大変さを代弁することもしなかったのです。
「私は悲しい」と「私に悲しみがやってくる」との決定的な違いがここにあるように思います。つまり、与格構文には、絶対的な他者が存在しているのです。つまり、私ではない主格・主体の存在を認めているということです。この校長先生の中にも、「悲しみがやってきた」その感覚が確かにあったのではないかと思います。子どもたちや水俣病の方を見たのではなく、子どもたちや水俣病の方の立場に立って見たということです。子どもたちが何を見ていたのか、水俣病の方が何を見ていたのか、徹底的にそこに立ったのです。「教育のやり直しをしよう」それは、そこに立った者でなければ語ることのできない言葉です。
「土の器」とは、私の中に絶対的な他者が存在しているということです。私ではない、主語や主格を持ち合わせているということです。クリスマスで講演に来てくださった入佐明美さんも、他者の声を徹底的に聞くということをおっしゃっておられました。これもまた、与格的な姿勢であり、土の器としての働きに他ならないように思うのです。
では今の私たちはどうでしょう。「私は悲しい」そこに留まっていないでしょうか。常に自分の視座から離れることができず、物事を私の立場からしか眺めていない現状を感じるのです。全ての基準は自分、そうである限りこの与格構文的な立ち方は決してできません。
常に私たちは、自分のことだけで精一杯です。他者を受け入れる余裕などありません。「私は悲しい」のです。しかし、この立ち方が、人を高慢にし、鈍感にし、助けを求める人の声から遠ざけていることもまた事実です。今の私たちは他者と繋がっていることの感覚が徹底的に欠けています。
「私に悲しみがやってくる」この土の器としての感覚を大切にしたいなと、改めて感じています。そして、他者と繋がっていること、他者が存在していること、その恵に目を向けつつ感謝すること、そのことを祈り求めていきたいなと思います。
コリントⅡ 4:7
「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。」
〈2025年1月8日 朝拝〉