ほぼ毎日と言っていいくらいに「ガザ」での死者のニュースを、目にする日々が何ヶ月も続いている。特に子供が犠牲者となるニュースには心が痛む。とりわけ10月13日に起きたムハンマド・アブルクムサン氏の生まれたばかりの双子の子供が、イスラエル軍の攻撃で死亡した出来事は悲惨だった。氏が出生証明書を取りに行き戻ってみたら、妻と共に子供達が亡くなっていた。その現場に駆けつけたムハンマド氏は、あまりの出来事にその場で失神してしまった。そしてその映像が全世界に流された。また、先日のNHKの朝の番組で、ガザの住民が「世界は我々の現実に対して何もしてくれない」と訴えていた。

  私たちは、東北の小さな学校で共に暮らしながら学んでいる。日常の中には様々な問題や課題があり、都度話し合いながら「何がより善きことか」を探し求めている。一方我々の住んでいる地球は、どうにもならない不公正、非人道性、不正義が存在している。ガザの住民の「何もしてくれない」、しない側にいてしまっている人間として、このことをどう考えるのかが問われている。

 「平和を創り出す人は幸いである」イエス・キリストの言葉だ。私たちの住んでいる叶水は、先日背後にある飯豊山に初冠雪があった。それを見ながら空気が急に冷たく感じる中、晩秋から冬へと巡る時の中を歩んでいる。1年の生徒がクラス通信に「道路の落ち葉の上を踏むときの音」のことを書いていた。山側にある様々な木々の落ち葉が道路を覆い、その上を歩いて我々は日々食堂に行く。「カサカサ、サクサク」何とも言い表しにくい音だ。つまり、日々がこの場所がとても静かなのだ。快晴に近い好天の続く秋、ようやく紅葉した山々を見ながら、米を収穫し、畑を耕し、牛の鳴き声を聞く。コーラスが響き、あちこちから話し声が聞こえる。平和そのものの中にいる。あまりにもありがたい中に居住している。

 今私たちがいるここ「ここ」とガザの「そこ」は余りに離れすぎている。繋がらない。我々よがりの希望を語る時ではない気がしていたけれども、我々は今ここで苦闘しながらも、日々共に生きることを目指している。哲学者柄谷行人氏は『デモが日本を変える』の文の中でこのように言っている。「“デモをして社会を変えられるのか”というような質問です。それに対して、私はこのように答えます。デモをすることによって社会を変えることは、確実にできる。なぜなら、デモをすることによって、日本の社会は、人がデモをする社会に変わるからです。」私は、この「社会」という言葉を「個人」と置き換えてみた。それは自覚する個人の誕生を意味することに他ならない。結果、社会が変わることもあり得る。「何がより善きことか」を共に探求しつつ生きることの意味を自覚した個人の誕生。そのことが「ここ」と「そこ」を繋いでいくものではないだろうか。

 現在、学園はイエス・キリストの降誕を祝うクリスマスに向けての準備が始まった。