独立学園のあるこの叶水では、一年を通じて実に多くの野の花を見ることが出来ます。とりわけ4月の雪が解けて土の中から萌え出でるマンサク、カタクリはあざやかで、毎年この時期には植物観察行事を行っています。時期に応じて様々な野の花が、次々と移り変わっていきます。

 先日の日曜礼拝講話は、新約聖書のマタイによる福音書6章にあるイエスの言葉「野の花を見よ」から語りました。「『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。」イエス自身が野の花を見る中で真理を顕され、示された箇所です。元の言葉はギリシャ語ですが、ヘブライ語では、「見る」という言葉と「現れる」という言葉はつながっています。我々も大自然の中で、神様から言葉を示されていきたいと語りました。

 5月12日から16日まで、連休キャンプが本校では実施されました。飯豊連峰や朝日連峰、飯豊山の麓をキャンプ地とする周辺キャンプなど7パーティに分かれ学園を出発していきました。さらに今年は、姉妹校である島根の愛真高校へ訪問することが出来ました。連日好天が続く中ではありましたが、13日は雨天となりました。私は周辺キャンプの引率をしましたが、13日は終日雨で、国民宿舎の軒下をお借りするなどして食事を作りました。翌14日は予報通りの快晴で、眼前には残雪の残る飯豊の峰が聳えて現れていました。

 青空の下、朝食を作りながらあたりを見渡すと、昨日までの雨の水滴が草の葉にたくさんついておりました。太陽に照らされ、きらきらと様々な色を見せながら輝く様子は、朝一番に見ることの出来る美しさに出会った幸いを感じました。生徒達が朝食を作っている間、私は座ってじっと草についている水玉の水滴を見ておりました。わずか1mm程度の水滴でも、蒸発しきるまでは結構時間がかかるものです。そうこうする内に、国民宿舎に通勤する職員、宿泊したお客の帰りの車の往来が始まりました。ごく普通に流れる時間の中での日常風景です。そして我々は、地べたに座ってコッヘルで米を炊いている。草の水滴や一方のそうした日常見ながら思ったことがあります。

 それは、1945年8月15日のことです。その日は、何かが止まった日、長い長いそれまで流れてきた時間が止まった日。それは、多くの人にとって地べたに座って空を見上げ、地を見つめ、静かに思う国家レベルの時だったのではないだろうか。もう警報がないという静けさの中で、心の中にも深い静けさと平安があったのではないだろうか。現在、多くの人から得体の知れない「不安」という声を聞くことがある中で、止まって良い、ブレーキをかけて良い、ゆっくり行こうという人と場所が求められているのではないだろうか。

 「野の花を見よ」のイエスのメッセージは、もちろんその中から発見された真理のメッセージを伝えてはいる。しかし別な視点から見ると、「野の花を見よ」に対して、「そんな余裕はありません」という当時も今も変わらない叫びにも近い声が聞こえてくるのです。巻き込まれている日常から抜け出せない悲しさが聞こえてくるのです。主イエスの「野の花を見よ」の言葉を通して、「あなたはどんな世界に生きていますか」の問いが見えてくるような思いがいたします。我々が無自覚的に良しとしてしまっている「常識」、「今流れている普通の時間」を問い直すことを思わされています。