9月のある日、畳の上に座っていると、私の周りに茶色く、小さい丸いものが5〜6個落ちていました。 一つひとつを拾い、持っていたハンカチの上に置きました。何だろうと、触ってみると固く「種」だと思いました。次に、この種はどこから来たのか?と疑問が湧いてきました。答えはすぐには見つかりませんでしたが、夜、洗濯をする時に答えが分かりました。その日、私はロールアップのズボンを穿いていました。裾が折られているところから、種が数個出てきました。草むらを歩いた記憶もなく、種がいつ折られた裾に入ったかは分かりませんでした。いつもなら気にせず、ポイっとしてしまうかもしれません。しかしなぜか、私は名前もどこで入ったのかもわからない小さな種に愛おしさを感じました。不思議な感覚でした。この愛おしく思った感覚は、9月中ずっと心のどこかにあり、時間があると思い出すものとなりました。
9月は、私にとって8月同様に、1年の中でも平和を祈り、考える時間になっています。私が七歳の頃、テレビで見た、ものすごい速さで夜空に光る多数の流れ星のような光。でもそれは「美しい」とは思えない、幼い私の心に恐怖を与えるものでした。1990年8月にイラクによるクウェート侵攻が始まりました。撤退を求め翌年1月にアメリカ軍主体の多国籍軍が攻撃を開始した湾岸戦争。私が見た光とは、バクダット中心部の夜空を照らす対空砲火の閃光でした。この湾岸戦争は、9.11同時多発テロ、イラク戦争へと繋がっていくことになります。
ひまわりの種を蒔いたのに、チューリップが咲くことはありません。ひまわりの種を蒔けばひまわりが咲き、ひまわりの種ができます。
争いの種は、争いの花を咲かせ、争いの種ができます。
平和の種は、平和の花を咲かせ、平和の種ができます。
私のズボンの裾に入った種、この種は次の命につながる種です。
命を奪う種では決してありません。だからこそ、愛おしさを感じたのだと思います。
私たちの内にも種があるのだと思います。私たちの言葉や生き方そのものが種なのです。
その種が、どのような花を咲かせ、どのような実を結ぶのでしょう。
命を奪う種ではなく、命を生み出す種であって欲しいと切に願います。
〈2023年9月25日 朝拝〉