本校では5月8日から11日にかけて、通称「連休キャンプ」と呼んでいる全校登山を行った。1500メートル級の山から周辺の山に至るまで、7つのコースに分かれて実施した。生徒は10キロ近くのリュックサックを背負い、1年生はまだ慣れていない登山靴を履き、たどたどしくも残雪の上を歩き、桜の花を見、新緑を浴びながら森の中へと入っていった。

歩く姿は皆一様で、自分の手前3~5メートルをじっと見つめながらただひたすら歩き続ける。アスファルトの道が次第に舗装されていない道路、砂利道に変っていき、さらに木陰の山道・小道を一歩一歩踏みしめながら進んでいく。しかし、終始変わらず少し前を見ながら淡々と歩き続ける。コースによっては、道なき道を藪をかき分けながら進むこともある。さらに、視界が開けたところで見える、雲一つ無い青空、遠くに見える白い残雪、山の緑、天上や眼下に広がる世界の美しさはたとえようが無い。その場にいる人間だけの宝物のようなものだ。汗をかいた体に吹きつける山の風はなんともさわやかだ。

誰に代わってもらうでも無く、一人ひとりが自分の足で歩ききり、共に登った人たちとそこで見たもの、感じたものを携え帰ってくる。そして再び朝の礼拝からのいつもの日常が始まる。

一人だけでは創り出すことができない人と人とが共に生きることによる豊かさがそこにはある。

「見よ、兄弟がもう一度再び共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」(詩編133:1)  この聖句は当たり前な、日常化している人の集まり、人と人とが共にいるということが実はなんと恵豊かなことなのかを教えてくれている。

 今年度は、ロシアとウクライナとの戦争の波紋が世界中に広がりつつある中で始まった。苦しみ悲しんでいる両国の一般市民をよそに、この出来事を最大限に活用するかに見える内外の勢いのただ中で、我々は日々の生活を送っている。

 1930年代、ドイツの神学者ボンヘッファーはヒトラーによるナチスがドイツを飲み込もうとしている中で『共に生きる生活』を書き、それを実践した。この書は、共に集うこと、祈ること、讃美すること、聖書に聞くことなど、共に生きる生活がいかに「平和を創り出す営み」であるかを、教えてくれている。むしろ、共に生きることの目的と言っても良いくらいである。

 我々は、今ここで淡々とした日々の営み、教育の業に励むことしか出来ない。しかし、この小さな叶水という山村での出来事が、実は遠い世界と直結していることをあらためて自覚しつつ歩んでいきたい。

〈独立時報172号原稿 2022年5月〉