最近自分が在学中に当時の男子寮舎監の先生が言っていたことをふと思い出しました。それは “ヤバいという言葉はヤクザの言葉なんやで”と苦い顔をしながら言っていた言葉です。やばいという言葉自体は江戸時代に起源があり、意味の変化も1970年代から2000年代にかけて変わってきています。当時の私はへぇ~そうなんだと思っただけでしたが、今思うとその先生と私とが捉えるヤバいという言葉に対するヤバさの感覚のギャップがあったのだろうと思います。それを思い出したのは、今の学園でよく使われるようになったと思う言葉への同じような感覚の差を知ったからです。それはキモイやだるいという言葉です。最初私はどちらもネガティブな言葉なので、単純にあまり聞きたくないなと思っていました。けれど生徒から“キモイって言葉は誉め言葉ですよ”と言われて、えっ!!そうなんだ。とすごくびっくりしました。それからみんなが話している言葉を聞きながら、その言葉にどのような意味が込められているのかを考えるようになりました。キモイという言葉は気持ちが悪いという意味ですが、自分の体調が悪い時には短縮形は使わないので、何かに対して気持ちが悪いということです。そのままの意味であれば不快さを表しているで、私からすると悪口なんです。けれどキモ可愛いという言葉があるように、ちょっと気持ち悪いけどそれが可愛いよね。という意味の言葉もあります。聞いていると“ギターがうますぎてキモい”とか“知識の量エグくてキモい”というように、気持ちが悪いくらいすごいとか、変だけど何か極めててすごいし、それに親しみ感じているよというニュアンスもこめてキモいと言ったりしているという事が感じ取れました。確かに話している人たちの表情を見ると嫌そうな顔をしている人がいないので、悪口ではないことが分かっているようでした。同時にみんながキモいキモいと話しているのをふと遠目でみると、どこかの中高生がたむろして誰かの悪口を言っている光景とそんなに変わらないとも思いました。それはヤバいの話と同じように私のキモいという言葉への感覚と実際に使っているみんなの感覚とにギャップがあるからだと思います。
ダルイという言葉も、体調のだるいではなく、“あいつダル”と誰かに向かって言っていたらネガティブな言葉で、場合によっては傷つく言葉だと思っています。これも聞いているとだいたいめんどくさいという言葉と同じ意味で使われているようです。なぜめんどくさいじゃなくてダルイなんだろうか。一つは言葉の短さと発音のしやすさかなと思います。また、めんどくさいは作業がめんどくさいなど対象への不満が強いのに対して、ダルイは自分の状態の表現なので作業ダルイといっても、相手を責めるニュアンスより自分の無気力さが強調されます。ある意味相手を責めるつもりがないという気持ちの表れかもしれません。めんどくさいとダルイの共通点としては、どちらも中身の幅があること。色々と感じていることがあっても、なんとなくめんどくさいとかダルイという言葉で済ますことができる言葉です。その言葉の奥でどんなことを感じているのかなとそんなことも思います。キモイにしてもダルイにしてもその言葉の意味がそんなにネガティブではないという共通理解のある内輪の中であれば人を傷つける言葉にはならないのかもしれないですし、自分の中でも言葉の意味を少しアップデートした方がいいのかなと思っていました。ここまでが夏休み前考えたことです。
そして夏休み中に研修で石井光太さんという方の講演をきくことがありました。ノンフィクション作家の方で、少年犯罪や虐待、貧困などの具体的事例を通して、現代の言葉の乏しさの問題点と言葉の重要さを話してくれました。石井さんは色々な国のストリートチルドレンとある程度会話できるといいます。それはなぜかというとそういった子どもたちは語彙力が少なく、せいぜい100~200(中学英語くらい)。だから極端な言葉を話していればそれなりに通じると言います。日本においても語彙力の少ない子どもたちは極端な言葉が多くなり、例えば自分のイライラや怒りがあったとして説明する言葉を持っていないから“ぶっ殺す”となり、実際にそれがある少年犯罪にもつながったという話も聞きました。講演会で話していた言葉を知らないと人は考えることができないという言葉はある種の衝撃でした。また、公衆トイレなどで子どもを産み捨ててしまった母たちにインタビューし、なんで相談や連絡などしなかったのかという質問をしました。それに対してほぼみんな“怖いから考えないようにしていた”と言っていたことから、劣悪な環境を生き延びる方法として言葉で考えないようにしていたということも話していました。石井さんは問題を解決するには言葉が重要で、むしろ厳しい経験をした人ほど、厳しいほど細かく言語化しないと自分の気持ちを考えたり、消化したり、その先に対策を考えたり味方を作るということができないと言います。ヘレンケラーが言葉の世界に出会ったときの衝撃を自分で自伝の中で言っています。
「すべてのものには名前があった、そして名前を1つ知る度に、新たな考えが浮かんでくる。家に戻る途中、手に触れたものすべてがいのちをもって震えているように思えた」
言葉を知る事で自分の考えが始まり、そしてそれは喜びだということです。確かに自分の経験としてもモヤモヤしたことが言葉になったことで何かから解放されていく感覚を感じる事は多々あります。言葉は誰かに何かを伝えるためのものだけではなく、自分自身が言葉によって確かにされたり、解放されたり、考えを深めることができる。そういうものなのだなと思わされました。もちろん言葉にできないこともあり、むしろそれが言葉の世界を豊かにしているとも思います。
石井さんは国語力を育てる環境としてこんな要素をあげていました。“国語力をかっこいいとさせる、多様な人との交流がある、違う価値観が提示される、スマホの制限、豊かな言語空間”などです。
これを聞いた時、学園じゃん!と思いました。経験としてはみんなの言葉を聞きながら学園で言葉が育っていくことを感じ取っていましたが、具体的に環境要素としてあげられるとやっぱりそうだよなと腑に落ちるところがあります。特に豊かな言語空間というのはここに居る人たちで作り上げるものなので、常に再生産していかなければいけません。感話や普段の会話の中で自分の言葉を模索しているみんなの存在がこの学園の豊かな言語空間を作り上げていっていると思います。そういう意味でも自分の言葉を模索し続けようと思いました。最初に話したキモイとダルイという言葉について、私がここで話したのはそういう言葉は使わない方がいいとかそういう事ではなくて、その言葉にまとめている想いがあるとしたら、是非言語化してほしいということです。もしかしたらとても大事な気持ちが隠れていて、言語化する事で自分自身が解放されて自由になっていくかもしれない、そんな可能性を思ったからです。みんなが自分の言葉と出会えることを願っています。
〈2026年8月25日 夕拝 〉
※日本語讃美歌:JHⅡ136、JHⅡ257
聖書:ヨハネによる福音書1:1~4
