本校では11月8日にクラブ発表会を行った。

畜産部、園芸部などの生産系クラブ、男声コーラス、女声コーラス、ハンドベル部、演劇部、人形劇部などの 音楽や芸術に関するクラブが4月から半年間活動をしてきたことの歩みを発表、実演した。

ちょうど一ヶ月前の十月八日、中東パレスチナでイスラエルとガザとの戦争勃発が報道された日であった。それから一月、日に日に死者数が増加し、11月2日には双方で10000人を超えた。そうした中でわれわれは複雑な心境で発表会を持つこととなった。

はるか遠く離れた地にありながら、特に民間人犠牲者の記事に心を痛めつつも、どうにも出来ないもどかしさを多くの生徒教職員が感じつつの中での会となった。

 当日、発表会は講堂で行われたのだが、皆それぞれに取り組んできた活動の発表や実演は素晴らしいものだった。少し会場のライトを落とし、うっすらと暗い中で行われたのだか、全体を通じて終始静けさがその場を支配しているような会であった。

 当然のことではあるが、発表にしても実演にしても音や言葉で為される。それらは、その発表を待っている間の時間の静けさの中に浮き出るように創り出された音や言葉に感じた。一つそしてまた一つ発表が行われるのだが、通常感じられる発表前の興奮やワクワクするような雰囲気よりも、発表の際の声や音よりも全体を包む静けさや沈黙が強調されたような時間であった。

 内村鑑三の無教会の流れをくむ本校にあって、キリスト教の象徴とも言えるイエス・キリストの十字架さえもがキャンパス内のほぼどこにもない。一つあるのが、講堂前方右に掲げられたベラスケスのキリストの十字架の絵である。その絵は多くの磔刑画にあるような十字架の背景が何もない。十字架上のイエスただ一人と真っ黒に描かれている背景のみの絵である。真っ黒な空間に中に、浮かび上がるように十字架上のイエスが描かれている。

 わたしは、この絵を見て先ほど述べた沈黙とそこに産み出される声や音とのコントラストと同じものを感じた。どちらが強調されているのだろうか。音なのか沈黙なのか。そして同時に沈黙に帰っていく音のことを思わされた。創り出される音によってむしろ沈黙が浮き上がる、音が止んだ後の静けさが残っていく、伝わっていく、そうした音の創出のことを思った。

 パレスチナでは連日途切れることなく音が作り出されている。砲弾、逃げる、叫ぶ、泣く、怒る、憎む、破壊の音が止むことが無い。これらは止んでほしいと多くの人が願う音である。ごく普通の日常の静けさを取り戻したいと願うが故に。様々なことがありながらも、パレスチナの地において10月6日まであった普通の日常の静けさが永遠に無くなってしまった。

 今私たちがこの世界の中で出来ることは、沈黙を取り戻すことではないだろうか。それは、黙っていると言うことを、無音であることを意味するのではない。むしろ、音を言葉を作り出すことによって静けさや沈黙が深く残っていく業を至る所に創っていくことではないだろうか。私たちが祈りとか平和とか呼ぶものであろう。

 学園で行われる今年度のクリスマステーマは「静寂 見上げれば星 となりには学園生 〜あなたが大切にすることは〜」である。イエスの降誕によって現れた神の大きな静寂と沈黙の業を思い学ぶ時としたい。