自分の中から、こんなにもことばが紡がれてくることを知りました。誰かのことばが、こんなにも長く長く心に灯り続けるものなのだと知りました。3年間、心の外に出せたことばは数える程でしたが、慈しみたいと願ったことばの種は芽を出したり出さなかったりしながら、今も日々心の中に生きています。
15歳の時には放てたことばが放てなくなり、15歳の時には我慢できた涙が我慢できなくなり、15歳の時に歌った歌は今なお口ずさんでおり、そして何よりも、15歳の時に隣で笑っていた顔が、25歳の今も変わらず柔らかい笑顔を向けてくれています。
秋の柔らかな陽射しの角度が思い出させる、園芸畑の危なっかしい渡し板と、それを渡る乾いた足音。大人になってから越した街に流れるクリスマスキャロルが呼び覚ます、凍った道で歌った静かな旋律と頬をさす冬の夜気、りんごの蝋燭がまあるく照らすいつもの食堂。スーパーの痩せたワラビで思い出す、早春の淡い山の色と食堂のざわめき。人の波に揉まれる交差点でふと蘇る、隣を歩いていた友のあまりにものんびりとした歩みと、鼻歌と、どうしようもなく大切なその存在。
どうしてどうして、山奥の小さな学校でわたしの心に降り積もったいのちの欠けらは、折に触れて心にチクッと刺さったり、心をじんわり溶かしたり、水の冷たさや土のあたたかさ、涙や古いメロディを幾度も思い出させたりしながら、深く深く心に織り込まれていくのです。
生きていたんだなぁ、生きてきたんだなぁ、生きていくんだなぁ、と思うのです。
〈 2016年卒業 66期生 〉