独立学園の三本柱
内村鑑三の思想を基に、学園の三本柱は建てられています。 以下は、私たちが大切にし、学び続けている、内村の文章です。(一部、現代の表現に改めました)
「読むべきもの、学ぶべきもの、為すべきこと。」
『聖書之研究』95号「所感」 1908(明治41)年1月10日
読むべきは聖書

読むべきものは聖書である。小説ではない。政論ではない。然(しか)り、神学ではない。 註解(ちゅうかい)でない、聖書そのものである、神の言(ことば)にして我が霊魂の声なる聖書である、 聖書は最も興味深き最も解し易き書である、世々の磐(いわ)より流れ出づる玉の如き清水である。 これを哲学的に解釈せんとせず、これを教会の書として読まず、 神が直接に霊魂に告げ給(たま)う言(ことば)として読んで、 聖書はその最も明瞭なる意味を我等に供給する。我等はすべての物を読むをやめても、 しかり、時々すべての物を読むをやめて、一意専心聖書を読んで、 これをして我等の霊魂を活き復(かえ)らしむべきである。
学ぶべきは天然

学ぶべきものは天然である。人の編(あ)みし法律ではない。その作りし制度ではない。 社会の習慣ではない。教会の教条(ドグマ)ではない。ありのままの天然である。 山である、河である、樹である、草である、虫である、魚である、禽(とり)である、 獣(けもの)である。これ皆直接に神より出で来りしものである。天然はただ天然ではない。 神の意思である。その意匠(いしょう)である。その中に最も深い真理は含まれてある。 天然を知らずして何事をも知ることは出来ない。天然は智識の「いろは」である。道徳の原理である。 政治の基礎である。天然を学ぶは道楽ではない、義務である。 天然教育の欠乏は教育上最大の欠乏である。
為すべきは労働

為(な)すべき事は労働である。口をもってする伝道ではない。筆をもってする著述ではない。 策略をもってする政治ではない。手と足とをもってする労働である。労働によらずして信仰は保てない。 労働によらずして智識以上の智識なる常識は得られない。労働は労働としてのみ尊いのではない。 信仰獲得ならびに維持の途(みち)として、常識養成の方法として、 愛心喚起の手段としてまた最も尊いのである。 キリストにおける信仰は文に頼りて維持することは出来ない。 語るを知りて働くを知らざる者は大抵は遠からずしてキリストを棄(す)てる者である。 福音は神学ではない労働である。聖書の最も善(よ)き註解は神学校より来る者にあらずして、 田圃(たんぼ)より、または工場より、または台所より来る者である。 労働なくして身は飢え、智識は衰え、霊魂は腐る。労働を賤(いや)しむ者は生命を棄(す)てる者である。 労働これ生命と言うも決して過言ではない。
